映画「幕末太陽傳」

幕末太陽傳幕末太陽傳
フランキー堺

「日活製作再開三周年記念」である本作は、戦時中の企業整備令(1942年)によって大都映画、新興キネマと製作部門が合併し大映となった日活が、1953年に映画製作再開を宣言して、翌1954年に東京・調布の日活撮影所が竣工して製作再開してから3年目という意味である。新生日活は、技術部門を東宝から、監督部門を松竹大船撮影所から主に引き抜き、この三周年記念映画を任された川島雄三監督もまた松竹大船からの移籍組(他に西河克己、鈴木清順、今村昌平など各氏)であった。
(参照:ウィキペディア)

作品リスト

・・・という訳で、今回も川島雄三監督1957年製作「幕末太陽傳」高評価作品sをピックアップする。
最近、川島監督作品にすっかり嵌っている。本作は57年前の時代劇映画であるにも関わらず年代を超えて観客の支持を得ており、日本映画史上の名作の一本として数えられる。実在した遊郭「相模屋」を舞台に起こる様々な出来事をグランドホテル方式と言われる形式でテンポ良く描いている。また古典落語をつなぎあわせた喜劇である本作は、川島監督の代表作にもなっている。

【追記・訃報】
本作の脚本を担当された山内久氏が2015年9月29日に亡くなった。田中啓一名義で書いた映画「幕末太陽傳(でん)」を始め、「豚と軍艦」、テレビドラマ「若者たち」、1970年に芸術祭大賞を受賞した「海のあく日」など数多くの脚本を手掛けた。1990年に紫綬褒章、日本シナリオ作家協会の理事長も務めた。

幕末太陽傳幕末太陽傳
左幸子                         南田洋子

【ストリー】
頃は幕末--ここ品川宿の遊女屋相模屋に登楼したのは佐平次の一行。さんざ遊んだ挙句に懐は無一文。怒った楼主伝兵衛は佐平次を行燈部屋に追払った。ところがこの男黙って居残りをする代物ではない。いつの間にやら玄関へ飛び出して番頭みたいな仕事を始めたが、その要領のよいこと。売れっ妓こはるの部屋に入浸って勘定がたまる一方の攘夷の志士高杉晋作たちから、そのカタをとって来たり、親子して同じこはるに通い続けたのがばれての親子喧嘩もうまく納めるといった具合。しかもその度に御祝儀を頂戴して懐を温める抜け目のない佐平次であった。この図々しい居残りが数日続くうちに、仕立物まで上手にする彼の器用さは、女郎こはるとおそめをいかれさせてしまった。かくて佐平次は二人の女からロ説かれる仕儀となった。ところが佐平次はこんな二人に目もくれずに大奮闘。女中おひさにほれた相模屋の太陽息子徳三郎は、おひさとの仲の橋渡しを佐平次に頼んだ。佐平次はこれを手数料十両で引受けた。あくまでちゃっかりしている佐平次は、こはるの部屋の高杉らに着目。彼らが御殿山英国公使館の焼打ちを謀っていることを知ると、御殿山工事場に出入りしている大工に異人館の地図を作らせ、これを高杉らに渡してまたまた儲けた。その上焼打ちの舟に、徳三郎とおひさを便乗させることも忘れなかった。その夜、御殿山に火が上った。この事件のすきに、ここらが引上げ時としこたま儲けた佐平次は旅支度。そこへこはるの客杢兵衛大尽が、こはるがいないと大騒ぎ。佐平次は、こはるは急死したと誤魔化してその場を繕い、翌朝早く旅支度して表に出ると、こはいかに杢兵衛が待ち構えていてこはるの墓に案内しろという。これも居残り稼業最後の稼ぎと、彼は杢兵衛から祝儀をもらうと、近くの墓地でいいかげんの石塔をこはるの墓と教えた。杢兵衛一心に拝んでいたが、ふと顔をあげるとこれが子供の戒名。欺されたと真赤になって怒る大尽を尻目に、佐平次は振分けかついで東海道の松並木を韋駄天走りに駈け去って行った。

幕末太陽傳幕末太陽傳
石原裕次郎                      芦川いづみ

題名:幕末太陽傳
監督:川島雄三
製作:山本武
脚本:今村昌平、田中啓一、川島雄三
撮影:高村倉太郎
照明:大西美津男
録音:橋本文雄
美術:中村公彦、千葉一彦
編集:中村正
音楽:黛敏郎
出演:フランキー堺、左幸子、南田洋子、石原裕次郎、芦川いづみ、市村俊幸、金子信雄、山岡久乃、二谷英明、梅野泰靖、岡田真澄、小沢昭一、殿山泰司、菅井きん
1957年日本・日活/スタンダードサイズ・モノクロ110分35mmフィルム
幕末太陽傳 デジタル修復版 DVD プレミアム・エディション
本作はゲオ宅配レンタルでご覧になれます。

幕末太陽傳幕末太陽傳
小沢昭一                     岡田真澄、フランキー堺
幕末太陽傳幕末太陽傳
菅井きん、左幸子             南田洋子、フランキー堺、岡田真澄、左幸子
幕末太陽傳幕末太陽傳
幕末太陽傳幕末太陽傳
幕末太陽傳幕末太陽傳

【解説】
日活は当初文芸映画や新国劇との合作を主としていたが、1956年に『太陽の季節』を大ヒットさせると、石原裕次郎という新時代のスターが主演する若者向けの映画会社へと変貌を遂げていた。しかし、この映画によって登場した太陽族に対する世間の風当たりは強く、日活内部でも「太陽族映画」を拒否する傾向が強かった。

そんな中で川島の提出した脚本はまさしく幕末の太陽族を意識させずにはおかないものであり、以後映画が完成するまでの間、川島と日活上層部との軋轢は絶えなかったという。
また、3周年を記念する大作が古典落語をつなぎあわせた喜劇映画であったこと、石原裕次郎などスター俳優を脇に回して軽喜劇で人気を博していたフランキー堺を主役に据えたこと、品川宿のセット予算など制作費の問題で会社と現場との間で軋轢があったこと、そして川島がかねてから抱いていた待遇の不満などが積み重なり、結局川島はこの映画を最後に日活から東京映画へと移籍することになった。

2012年、日活が100周年を迎えることを記念して本作のデジタル修復が行われた。この修復には本作で録音を担当した橋本文雄が、録音・修復監修として参加した。2011年に世界各国を巡回上映。日本でも一般公開された。
(参照:ウィキペディア)