映画「野火」

野火野火
船越英二

今回は市川崑監督1959年製作「野火」をピックアップする。
内容は太平洋戦争末期のフィリピン、レイテ島で米軍に包囲され、食料も尽き兵站も崩壊した日本軍は絶望的な抵抗を続けていた。その敗残兵の過酷な状況が、リアリティを持って衝撃的に描かれ、飢えに極限状態に陥った日本兵が同僚を殺しその肉を食べるという究極のテーマだ。しかし、迫真の芝居に反して、レイテ島にはないであろう日本の植物や風景(御殿場など)を見立てる事は、当時の日本映画で海外ロケが難しかったのは分かるが、シラケた。少しがっかりしたが、内容が優れている作品である事は間違いない。特に和田夏十氏の脚本が素晴らしい。
本作のリメイクは、2015年7月25日にビデオ映画で塚本晋也監督・主演(出演:リリー・フランキー、中村達也、森優作)公開された。公式サイトはこちら
私はリメイク版を未だ見てないが、果たして本作を超えているのだろうか?

野火野火
ミッキー・カーチス、船越英二

【ストリー】
曹長はなぐった。再び病院へ帰れと命じた。田村一等兵はのろのろと歩き出した。それは死の宣告に等しかった。病院からも追い出されたばかりだ。どこにも行く所がないのだ。
比島戦線、レイテ島。日本軍は山中に追いこまれていた。田村は病院の前に寝ころぶ同じように原隊から追われた連中の仲間に加わった。彼らが厄介ばらいされたのは、病気で食糧あさりに行けないからなのだ。安田という要領のいい兵隊は、足をハラしていたが、煙草の葉を沢山持っていた。永松という若い兵が女中の子だというので、昔、女中に子を生ませた安田は、彼を使うことにした。翌日、病院は砲撃され、田村は荒野を一人で逃げた。海辺の教会のある無人の町で、田村は舟でこぎつけてきた男女のうち女を射殺してしまう。恐怖からである。そこで手に入れた塩を代償に、彼は山中の芋畠で出会った兵たちの仲間に入った。彼らは集結地という、パロンポンを目指していた。すでに雨季がきていた。密林の中を、ボロボロの兵の列が続いた。安田と永松が煙草の立売りをしていた。オルモック街道には、米軍がいて、その横断は不可能だった。山中で、兵たちは惨めに死んだ。幾日かが過ぎ、田村は草を食って生きていた。切断された足首の転がる野原で、彼は何ものかの銃撃に追われた。転んだ彼を抱き上げたのは、永松だった。永松は“猿”を狩り、歩けぬ安田と生きていたのだ。安田は田村の手榴弾をだましとった。永松の見通し通り、安田はそれを田村たちに投げつけてきた。彼が歩けぬのは偽装だったのだ。二人に安田が仲直りを呼びかけてきた。永松の射撃で、安田は倒れた。永松がその足首を打落している時、何かが田村を押しやり、銃を取らせ、構えさせた。“待て田村、わかった、よせ”銃声とともに、永松はそのままくずおれた。田村は銃を捨て、かなたの野火へ向ってよろよろと歩き始めた。あの下には比島人がいる。危険だった。が、その人間的な映像が彼をひきつけるのだ。その時、その方向から銃弾が飛んできた。田村は倒れ、赤子が眠るように大地に伏したまま動かなくなった。すでに、夕焼けがレイテの果しない空を占めていた。

野火野火
ミッキー・カーチス、船越英二

題名:野火
監督:市川崑
企画:藤井浩明
製作:永田雅一
原作:大岡昇平
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
特撮:的場徹
照明:米山勇
録音:西井憲一
美術:柴田篤二
編集:中静達治
音楽:芥川也寸志
現像:東洋現像所
製作主任:熊田朝男
助監督:弓削太郎
出演:船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチス、星ひかる、佐野浅夫、山茶花究、浜村純、月田昌也、杉田康、浜口喜博
1959年日本・大映/シネスコサイズ・モノクロ104分35mmフィルム
野火 [DVD]
本作はゲオ宅配レンタルでご覧になれます。

野火野火
1959年製作「野火」
野火野火
市川昆監督、船越英二

「市川崑が冷静に描いたキリスト教的信仰心とカニバリズム/イーデン・コーキル氏」

多くの太平洋戦争の「記録」によると、フィリピンのレイテ島における戦いは1944年12月31日に終了した。しかし、その戦闘の惨憺たる結末を描いた市川崑監督の『野火』(英題:Fires on the Plain/1959年 )は、冒頭に告げられる字幕によれば、「レイテ島、1945年2月」とその2ヶ月後の物語である。
この戦いは何を持って「終了」することになるだろう?市川監督の映画が教えてくれるのは、その過程が1日という時間軸に凝縮できる類のものではないこと。監督が追う日本兵たちは未だ逃走中。いや、日本海軍が迎えに来ているという、まことしやかな噂が流れているパロンポンビーチまで、飢えに苦しみながら痛々しいほどおぼつかない足取りで彷徨うさまに、「逃走」という表現はエネルギッシュ過ぎるかもしれない。食糧も弾薬もなく、島外の上官とも完全に切り離され、万が一降伏したとしてもアメリカ兵に殺されてしまう恐れもある。この凄惨たる状況下では、兵士たち(まだ兵士と呼べるのであれば)が究極の手段に駆られるのも仕方がないと思える。ある者は降伏に生き残りを賭け、また別の者は自決を選ぶ。ただ地面に崩れ落ちて餓死する者も既に出ている。この絶望的な状況で、この映画の核を成す2人の人物は両極端の選択をとる事になる。一人はキリスト教的信仰心、もう一人はカニバリズムである。このような重苦しい命題や感情の波に押しつぶされんばかりの決断を、鑑賞に耐えうるどころか、むしろ観る者を惹きつけてやまない映画として構築してみせたのは、一重に市川監督の功績だ。成功の秘訣は、一貫して感傷に訴える手法を貫いた点にある。上空を飛ぶ戦闘機に機銃掃射されていることにさえ気がつかずゾンビのように彷徨い歩く場面など、飢餓と絶望の乾いたイメージを、監督は執拗に描き続ける。目を背けたい場面が続くため、やがて、永松(ミッキー・カーティス)が、生き残るために肉を求めて戦友を狩っている場面まで達すると、つい許容してしまいそうにもなる。その行為を知った田村(船越英二)が、永松に立ち向かうための道徳心を持ち直すのに時間が必要であることも、無論理解できる。
この映画は、太平洋戦争に出征し、レイテ島で米軍の捕虜になった経験を持つ、大岡昇平の小説「野火」に極めて忠実に製作されてはいるものの、小説における田村の一人称の文語的な叙述のほとんどは、市川監督の手で純粋に視覚的イメージやシンボルに置き換えられている。監督は田村が徐々にキリスト教への信仰心、(少なくとも根源的道徳心)を深めていくさまを表現するのに特に優れた手腕を発揮している。田村が彷徨う最中で教会を見つけた後、市川のキャメラは風景の中に偶然のごとく十字架を映し出す。交差した二本の枝に説教じみたものは何も無いが、地獄と化したこの島で起こる度重なる喪失の中、それでも失われず存続し続ける人間の品性というものがこの世には存在するのではないか、ということを田村同様、観客にも静かに感じさせてくれる。