映画「赤ひげ」


三船敏郎                        加山雄三

今回は黒澤明監督1965年製作「赤ひげ」をピックアップする。
本作の撮影は、世田谷区砧にある東宝撮影所に近い30,000平方メートルの敷地に、表門、役人詰所、病棟、賄所に至る30数棟、延べ3,000平方メートルを越す広さで「小石川養生所」のセットが建てられた。その現場に、当時アメリカからピーター・オトゥール、シドニー・ポワチエ、カーク・ダグラスなどハリウッド映画人がセットを視察に来たそうだ。黒澤明監督が「日本映画の危機が叫ばれているが、それを救うものは映画を創る人々の情熱と誠実以外にはない。私は、この『赤ひげ』という作品の中にスタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる」という熱意を込めて、シナリオ執筆に2年、撮影に1年半もの期間をかけたのだった。

当時、若大将シリーズで人気沸騰の加山雄三さんは、「ハワイの若大将」撮影後、黒澤組に1年間拘束された。このブランクで若大将シシリーズの中止は避けられないと考えられていたが、1965年に「海の若大将」が宝塚映画で制作され、前作を上回る興業成績を収めた。


加山雄三、田中絹代                加山雄三、土屋嘉男

【ストリー】
医員見習として小石川養生所へ住み込んだ保本登(加山雄三)は、出世を夢みて、長崎に遊学したその志が、古びて、貧乏の匂いがたちこめるこの養生所で、ついえていくのを、不満やるかたない思いで、過していた。赤っぽいひげが荒々しく生えた所長新出去定(三船敏郎)が精悍で厳しい面持で、「お前は今日からここに詰める」といった一言で、登の運命が決まった。人の心を見抜くような赤ひげの目に反撥する登はこの養生所の禁をすべて破って、養生所を出されることを頼みとしていた。薬草園の中にある座敷牢にいる美しい狂女は、赤ひげのみたてで先天性狂的躰質ということであった。登は、赤ひげのみたてが誤診であることを指摘したが、禁を侵して足しげく通った結果、登は、赤ひげのみたてが正しかったことを知った。毎日、貧乏人と接し、黙々と医術をほどこす赤ひげは、和蘭陀医学を学ばなければ解る筈のない大機里爾という言葉を使って、登に目をみはらせた。赤ひげは「病気の原因は社会の貧困と無知から来るものでこれに治療法はない」といつも口にしていた。こんな中で登は、貧しく死んでゆく人々の平凡な顔の中に、人生の不幸を耐えた美しさを見るようになった。登が赤ひげに共鳴して初めてお仕着せを着た日赤ひげは登を連れて岡場所に来た。そして幼い身体で客商売を強いられるおとよ(二木てるみ)を助けた。人を信じることを知らない薄幸なおとよが登の最初の患者であった。長崎帰りをひけらかし、遊学中に裏切ったちぐさ(藤山陽子)を責めた自分に嫌悪を感じた登は、おとよの看病に必死となった。やがておとよは、登に対しても他人に対してもあふれる愛情を示し始めた。そしてふとした盗みでおとよに救け出された長次(頭師佳孝)とおとよの間に、幼い恋が芽生えた頃、登はちぐさの妹まさえ(内藤洋子)と結婚の約束を取り交した。そして、名誉にも金にも縁遠くなっても、一生この養生所で、医術にいそしむことを誓った。


二木てるみ                         香川京子

頭師佳孝

題名:赤ひげ
監督:黒澤明
製作:田中友幸、菊島隆三
原作:山本周五郎「赤ひげ診療譚」
脚本:井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明
撮影:中井朝一、斎藤孝雄
照明:森弘充
特機:関根義雄
録音:渡会伸
音効:三縄一郎
整音:下永尚
美術:村木与四郎
小道具:野島秋雄
結髪:松本好子
技髪:山田順二郎
衣裳:鮫島喜子
記録:野上照代
編集:黒澤明
音楽:佐藤勝
現像:キヌタ・ラボラトリー
製作担当:根津博
製作進行:木島繁
助監督:森谷司郎
監督助手:出目昌伸、松江陽一、大森健次郎
撮影助手:原一民
照明助手:原文良
録音助手:指田漸
美術助手:福迫望
編集助手:兼子玲子
製作宣伝:斉藤忠夫
スチール:副田正男
出演:三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、桑野みゆき、香川京子、江原達怡、土屋嘉男、二木てるみ、頭師佳孝、根岸明美、東野英治郎、志村喬、笠智衆、杉村春子、田中絹代、藤山陽子、内藤洋子、野村昭子、藤原釜足、西村晃、常田富士男、菅井きん、風見章子、富田恵子、左卜全、渡辺篤
1965年第26回ヴェネチア国際映画祭男優賞(三船敏郎)、サン・ジョルジョ賞、ヴェネチア市賞、モスクワ国際映画祭映画労働組合賞受賞
1965年日本・黒澤プロダクション+東宝/東宝スコープ(シネスコサイズ)・モノクロ185分35mmフィルム
赤ひげ -DVD-
本作はゲオ宅配レンタルでご覧になれます。


加山雄三、三船敏郎                                                内藤洋子、加山雄三

映画「破戒」

破戒破戒
市川雷蔵                        長門裕之

今回は市川崑監督1962年製作「破戒」高評価作品sをピックアップする。
本作は島崎藤村氏の同名原作を和田夏十氏の脚本により映画化したものだが、日本が日露戦争に突入した時代に被差別部落問題をテーマにした原作を映像に昇華させた優秀な作品である。本作の演出、撮影、照明、美術、名優の芝居は一級品である事は間違いない。特に巨匠・宮川一夫氏の撮影が、絵画を見る様な美しい映像で脱帽する。

破戒破戒
三國連太郎                船越英二、長門裕之、市川雷蔵、宮口精二

【ストリー】
天の知らせか10年ぶりで父に会おうと信州烏帽子嶽山麓の番小屋にかけつけた、飯山の小学校教員瀬川丑松(市川雷蔵)は、ついに父の死にめに会えなかった。丑松は父の遺体に、「阿爺さん丑松は誓います。隠せという戒めを決して破りません、たとえ如何なる目をみようと、如何なる人に邂逅おうと、決して身の素性をうちあけません」と呻くように言った。下宿の鷹匠館に帰り、その思いに沈む丑松を慰めに来たのは同僚の土屋銀之助(長門裕之)であった。だが、彼すら被差別部落民を蔑視するのを知った丑松は淋しかった。丑松は下宿を蓮華寺に変えた。士族あがりの教員風間敬之進(船越英二)の娘お志保(藤村志保)が住職の養女となっていたが、好色な住職(二代目中村鴈治郎)は彼女を狙っていた。「部落民解放」を叫ぶ猪子蓮太郎(三國連太郎)に敬事する丑松であったが、猪子から君も一生卑怯者で通すつもりか、と問いつめられるや、「私は部落民でない」と言いきるのだった。飯山の町会議員高柳(潮万太郎)から自分の妻が被差別部落民だし、お互いに協力しようと申しこまれても丑松はひたすらに身分を隠し通した。だが、丑松が被差別部落民であるとの噂がどこからともなく流れた。校長の耳にも入ったが、銀之助はそれを強く否定した。校長から退職を迫られ、酒に酔いしれる敬之進は、介抱する丑松にお志保を嫁に貰ってくれと頼むのだった。町会議員の応援演説に飯山に来た猪子は、高柳派の壮漢の凶刃に倒れた。師ともいうべき猪子の変り果てた姿に丑松の心は決まった。丑松は「進退伺」を手に、校長に自分が被差別部落民であると告白した。丑松は職を追われた。骨を抱いて帰る猪子の妻と共に、丑松はふりしきる雪の中を東京に向った。これを見送る生徒たち。その後に涙にぬれたお志保の顔があった。

破戒破戒
市川雷蔵 、藤村志保                杉村春子、藤村志保

題名:破戒
監督:市川崑
企画:藤井浩明
製作:永田雅一
原作:島崎藤村
脚本:和田夏十
撮影:宮川一夫
照明:岡本健一
録音:大角正夫
美術:西岡善信
装置:梶谷輝男
編集:西田重雄
音楽:芥川也寸志
助監督:中村倍也、遠藤実
スチール:西地正満
出演:市川雷蔵、長門裕之、船越英二、藤村志保、三國連太郎、岸田今日子、中村鴈治郎(二代目)、杉村春子、宮口精二、浜村純、浦辺粂子
1962年日本・大映京都撮影所/シネスコサイズ・モノクロ119分35mmフィルム
破戒 [DVD]
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破戒破戒
岸田今日子
破戒破戒
市川崑監督と宮川一夫キャメラマン

映画「小早川家の秋」

小早川家の秋小早川家の秋
原節子                       新珠三千代

今回は巨匠小津安二郎監督1961年製作「小早川家の秋」をピックアップする。
本作は、宝塚映画制作所(現・宝塚映像)創立10周年記念作品として、映画会社五社協定が厳しかった時代に、松竹を代表する小津監督が、他社で映画を撮った稀有な作品だ。
その為、本作に限っての撮影は、松竹小津組の厚田雄春氏から東宝黒澤組の中井朝一氏が担当されている。
定番の50mm標準レンズなのに、微妙に違うローアングル、ロケセットでの40mmまたは32mmのレンズ使用を見つけたドキドキ感が、何とも言えず良かった。

作品リスト

小早川家の秋小早川家の秋
司葉子                     中村鴈治郎[二代目

【ストリー】
秋子(原節子)は小早川家の長男に嫁いだが、一人の男の子を残して夫に死なれてからは御堂筋の画廊に勤めている。代々、造り酒屋で手広い商売をしてきた小早川家も、万兵衛(中村鴈治郎)が六十五になり今は娘の文子(新珠三千代)のつれあい久夫(小林桂樹)に仕事が渡り、万兵衛は末娘の紀子(司葉子)と秋子をかたづけるのに頭をつかっていた。文子たち夫婦も、店の番頭信吉、六太郎(藤木悠)も、この頃、万兵衛の妙に落着かない様子に不審を抱いていた。或る日、六太郎は掛取りを口実に万兵衛の後をつけた。万兵衛は、素人旅館「佐々木」に入っていった。女道楽ばかりしてきた万兵衛で、競輪の帰り十九年振りにバッタリ逢った焼け棒杭がつね(浪花千栄子)だった。つねは百合子(団令子)と二人で暮らしていて、百合子は万兵衛をお父ちゃんとよんでいる。秋子には、万兵衛の義弟に当る弥之助(加東大介)の世話で磯村(森繁久彌)との話が進んでいた。磯村は一生懸命であるが、秋子の気持はどうもふんぎりがつかない。一方、紀子もお見合いをしたもののこれも仲々決めようとしない。紀子は、札幌に行った大学助教授寺本(宝田明)に秘かな愛情を寄せていた。亡妻の法事の日、嵐山で一晩楽しく過ごした小早川家一族は、万兵衛の病気で大騒ぎとなった。心臓が痛いというのである。が、翌朝になって万兵衛は、ケロリとして起き上り皆を驚かした。万兵衛はその日にまた佐々木の家に行った。万兵衛はつねと一緒に競輪を楽しみ、その晩佐々木の家で心臓の発作を起して息を引き取った。お骨ひろいに一家は集った。久夫はいよいよ合併が近いことを洩らした。小早川家の商売も、大資本の波におしまくられ企業整理のキッカケが、万兵衛という柱が亡くなって一遍にやって来たのだ。文子は「小早川の家が何とかもったのも、お父ちゃんのお蔭やったんや」とつくづく思った。紀子は札幌に行く決心をした。秋子も心から賛成したが、自分は再婚しないで今のままでいようと思った。火葬場の煙は一族の者にそれぞれの思いをしのばせながら秋めいた空に消えていくのだった。

小早川家の秋小早川家の秋
森繁久彌、加東大介

題名:小早川家の秋
監督:小津安二郎
製作:藤本真澄
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:中井朝一
照明:石井長四郎
録音:中川浩一
整音:下永尚
美術:下河原友雄
衣裳:斉藤はな、岡本忠治
記録:鈴木伸
編集:岩下廣一
音楽:黛敏郎
フィルム:アグファ・ゲバルト
現像:東京現像所
製作担当:金子正且、寺本忠弘
製作進行:安恵重喜
助監督:竹前重吉
出演:原節子、司葉子、新珠三千代、中村鴈治郎[二代目]、浪花千栄子、団令子、小林桂樹、島津雅彦、森繁久彌、加東大介、白川由美、宝田明、杉村春子、藤木悠、笠智衆、山茶花究
1961年日本・宝塚映画+東宝/スタンダードサイズ・カラー103分35mmフィルム
小早川家の秋 [DVD]
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小早川家の秋小早川家の秋

【映画会社五社協定の歴史】
第二次世界大戦後、映画興行などの事業を中心に活動していた日活は、社長堀久作の下で戦前以来の映画制作再開へ動き出し、多摩川撮影所を建設するとともに他の5社から監督や俳優の引き抜きを行おうとした。これに対抗して結ばれたのがこの協定であり、名目は映画会社同士の専属監督・俳優の引き抜きの禁止だったが、真の目的は、日活による俳優引き抜きを封じることであった。
大映社長の永田雅一の主導で五社協定審議会を開き、5章15条からなる五社申し合わせを作成する。
これが「五社協定」と呼ばれた。主な内容は次の通りであった。
各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止する。
監督、俳優の貸し出しの特例も、この際廃止する。
1954 年に映画制作を再開した日活は石原裕次郎ら独自の新人スター発掘に成功し、男性アクション路線も大人気で定着した。それにより当初の目的は失われる。1958年9月には日活も協定に参加し「六社協定」となる。六社協定では「スターを貸さない、借りない、引き抜かない」の三ない主義を打ち出している。
1961 年には新東宝が経営破綻し、再び五社協定となる。1950年代後半には、急速に勃興するテレビに対抗し、映画会社の既得権を守ることが主目的となる。 1956年10月1日(9月末という説もある)には、5社からテレビへの劇映画提供を打ち切り、専属俳優のテレビドラマ出演も制限する。5社専属俳優のテレビドラマ出演が制限された結果、テレビ局はドラマなどに新劇俳優を多く起用するようになる。
新東宝の倒産に始まる、1960年代初頭からの日本の映画産業全体の斜陽化は著しく、テレビの急速な普及・発展や高度経済成長による娯楽の多様化などに圧倒されることになった。1971年、8月に日活は業績不振で一般劇映画からは撤退(夏休み、正月等の時期に向けて、一定数の一般作品も製作)、同年秋より低予算の成人向け映画・“日活ロマンポルノ”へと移行した。残りの大手映画会社も1970年代に入ると制作本数を激減させ、東宝も主力映画作品であった東宝4大喜劇シリーズを終了させ、1971年に専属俳優の一斉解雇に踏み切った。東映もこの時期にテレビへと比重を移し、撮影所などの自社施設でドラマや子供向けのテレビ番組の制作を数多く手掛けるようになるなど、映画会社もテレビなくしては経営が成り立たなくなった。
五社協定の主導者であった永田雅一率いる大映は、1969年に最後の頼み綱であった専属スター市川雷蔵を病で失って以降いよいよ末期的な凋落傾向となっていたが、1971年秋についに映画製作を中断、年末には経営破綻する。これらの結果として、この1971年をもって映画会社専属制のスター・システムは崩壊し、五社協定は自然消滅した。
(参照:ウィキペディア)

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