映画「キューポラのある街」

キューポラのある街
吉永小百合
キューポラのある街キューポラのある街
吉永小百合                    浜田光夫、吉永小百合

今回は浦山桐郎監督1962年製作「キューポラのある街」をピックアップする。
本作は今では見られないキューポラの煙突が風物詩だった埼玉県川口市を舞台に川口市荒川堤、南中学校庭、鋳物工場、川口銀座、川口駅前、川口オートレース場、さいたま市別所沼公園、東京都小平市日立製作所武蔵工場などで撮影したそうだ。脚本は浦山監督の師である今村昌平氏との共同執筆であり、日活の助監督だった浦山桐郎氏の監督昇格デビュー作だ。ドラマの背景にある在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業は、当時の朝日新聞・毎日新聞・読売新聞・産経新聞等のマスコミが率先し報道をして北朝鮮と朝鮮総連による”地上の楽園”と言う大嘘を多くの人に信じ込ませた事実があり、この”地上の楽園”に夢を求めて北朝鮮に渡った人々は、1984年までに約93,000人(日本人妻は約1,800人)になると言われている。今でこそ明らかな事実を踏まえると、本作のテーマはさらに深刻なものになる内容がとても皮肉だ。1960年代、その頃の日本を知るには外せない作品だと思う。

キューポラのある街キューポラのある街
加藤武、吉永小百合、鈴木光子          東野栄治郎、杉山徳子

【ストリー】
鋳物の町として有名な埼玉県川口市。銑鉄溶解炉キューポラやこしきが林立するこの町は、昔から鉄と火と汗に汚れた鋳物職人の町である。石黒辰五郎(東野栄治郎)も、昔怪我をした足をひきずりながらも、職人気質一途にこしきを守って来た炭たきである。この辰五郎のつとめている松永工場には五、六人の職工しかおらず、それも今年二十歳の塚本克巳(浜田光夫)を除いては中老の職工ばかり、それだけにこの工場が丸三という大工場に買収され、そのためクビになった辰五郎ほかの職工は翌日から路頭に迷うより仕方なかった。辰五郎の家は妻トミ(杉山徳子)、長女ジュン(吉永小百合)、長男タカユキ(市川好郎)、次男テツハル(岩城亨)の五人家族。路地裏の長屋に住んでいた。辰五郎がクビになった夜、トミはとある小病院の一室で男児を生んだが辰五郎はやけ酒を飲み歩いて病院へは顔も出さなかった。その後、退職の涙金も出ず辰五郎の家は苦しくなった。そしてささいなことでタカユキが家をとびだすような大さわぎがおこった。タカユキはサンキチ(森坂秀樹)のところへ逃げ込んだ。サンキチの父親(浜村純)が朝鮮人だというので辰五郎はタカユキがサンキチとつきあうのを喜ばなかった。そのうえ克巳が辰五郎の退職金のことでかけあって来ると、「職人がアカの世話になっちゃあ」といって皆を唖然とさせた。しかしタカユキが鳩のヒナのことで開田組のチンピラにインネンをつけられたことを知ったジュンは、敢然とチンピラの本拠へ乗り込んでタカユキを救った。貧しいながらこの姉弟の心のなかには暖かしい未来の灯があかあかとともっていた。やっとジュンの親友ノブコ(日吉順子)の父の会社に仕事がみつかった辰五郎も、新しい技術についてゆけずやめてしまいジュンを悲しませた。街をさまよったジュンは、トミが町角の飲み屋で男たちと嬌声をあげるのを見てしまった。不良の級友リス(青木加代子)にバーにつれていかれ睡眠薬をのまされてしまったジュンは、危機一髪のところで克巳が誘導した刑事(河上信夫)に助けられた。学校に行かなくなったジュンを野田先生(加藤武)の温情がつれもどした。やがて石黒家にも春がめぐって来た。克巳の会社が大拡張され、克巳の世話で辰五郎もその工場に行くこととなった。ジュンも昼間働きながら夜間高校に行くようになった。克巳もこの一家の喜びがわがことのように思えてならなかった。石黒家は久し振りの笑い声でいっぱいだった。

キューポラのある街キューポラのある街
吉行和子、吉永小百合            ー浜田光夫、東野栄治郎、杉山徳子

題名:キューポラのある街
監督:浦山桐郎
企画:大塚和
原作:早船ちよ
脚本:今村昌平、浦山桐郎
撮影:姫田真佐久
照明:岩木保夫
録音:古山恒夫
美術:中村公彦
特技:金田啓治
記録:小林圭子
編集:丹治睦夫
音楽:黛敏郎
製作主任:山野井政則
助監督:大木崇史
スチール:井本俊康
出演:吉永小百合、浜田光夫、市川好郎、東野栄治郎、杉山徳子、加藤武、鈴木光子、北林谷栄、吉行和子、殿山泰司、小沢昭一、菅井きん、浜村純、下元勉、小林昭二、森坂秀樹、岩城亨、日吉順子、河上信夫、青木加代子、岡田可愛
1962年日本・日活/シネスコサイズ・モノクロ100分35mmフィルム
キューポラのある街-DVD-
本作はゲオ宅配レンタルでご覧になれます。

キューポラのある街キューポラのある街
市川好郎、吉永小百合

キューポラのある街

映画「七人の侍」

七人の侍七人の侍
三船敏郎

今回は世界の黒澤明監督1954年製作「七人の侍」をピックアップする。
黒澤明監督作品は世界の映画製作者、監督たちに影響を与えたが、中でもアメリカ西部劇「荒野の七人(THE MAGNIFICENT SEVEN/1960年ジョン・スタージェス監督)」の原作になった事は有名だ。本作との相違点は、”武士とガンマン” つまり身分制度の存在する時代が舞台の「七人の侍」は、”武士”は身分であるのに対し、”ガンマン”は身分はない。
ガンマンは、いつでも農民になる事も出来るし逆もまた可能だ。しかし、武士はそうはいかない。本作ではリーダーの勘兵衛の呟きと、戦いで死んだ仲間の侍の墳墓で終わるが「荒野の七人」のガンマンは、村に残る等という選択肢はなく、死んだ仲間の墓を描いた後にガンマンと長老がお互いを讃えてから荒野に去っていくという内容だった。

【東宝現像所とキヌタ・ラボラトリーについて】
1932年6月にP.C.L.の発足以来、施設は存在していた。1934年12月に現像所が完成し、東宝現像所としてスタートする。1936年7月に現像所に2階を増築。モノクロ時代の東宝作品を一手に引き受けていた。1959年11月にキヌタ・ラボラトリーと改名した。

七人の侍七人の侍
志村喬

【解説】
当時の映画としては超大作と言える2億円の資金が投じられ、製作には充分な時間がとられた。脚本は数人がかりで練りこまれた。撮影は一部スタジオで行われた分を除き、大部分が東宝撮影所付近の田園(現:世田谷通り大蔵団地前)に作られた巨大な村のオープンセットと、伊豆から箱根にかけての各地の山村でのロケーション撮影で行われた。
ロケ地にもオープンセットと違和感なくつながるように村の一部を建設したため建設費も大きくなった。本作の撮影場面の半分はロケで行われた。
冒頭の武士が村を見下ろす場面と、大俯瞰の村々のセットは丹那トンネル真上に作られた。クランクインは昭和28年5月27日。まず利吉(土屋)と万造(藤原)の取っ組み合いの喧嘩の場面から始められた。
スタジオ撮影では、水車小屋のセットでの撮影で、黒澤監督がイライラしはじめ、スタッフや役者にまでイライラが伝染して難渋。土屋が原因を調べたところ、換気装置が老化して機能していなかった。監督たちは湿気のためにイライラしていたのである。
以後、このステージは「地獄小屋」と呼ばれてスタッフに恐れられた。
野武士の騎馬と竹槍農民との合戦は、伊豆でロケされた。本作には、無名時代の仲代達矢と、宇津井健も出演している。本作出演の決まった仲代は毎朝早くに撮影所に出掛け、家に帰る頃には足の親指と人差し指の間が(鼻緒で)擦れて血だらけになっていて、仲代は加地健太郎に「いやぁ、黒澤監督ってのはすごいよ、今日も一日歩かされた」と語っている。浪人が歩く数秒のカットだけで、黒澤監督は何日もリハーサルを重ねて撮影に臨んでいた。本作の撮影は一年近くかかった。

秋になると「一体いつ終わるのか」と賭けをする者もあらわれ、黒澤自身までその賭けの仲間に入った。そうこうするうちに年越しの気配となり、撮影所所長が余りの予算と日数のオーバーの責任をとって、辞表を出す騒ぎとなった。こうしてついに東宝本社は撮影中止命令を出し、「撮影済みのフィルムを編集して完成させる」と決定。重役だけ集めて試写を行った。試写フィルムは、野武士が山の斜面を駆け下り、菊千代(三船敏郎)が「ウワー、来やがった、来やがった!」と屋根で飛び上がり、利吉の家に旗がひらめいたところで終わり、ここから合戦という場面でフィルムがストップする。がっくりきた重役達は「存分にお撮り下さい」と黒澤に伝え、撮影所所長は復帰。
黒澤は「最初からこうなることを予測して、最も肝心な最後の大決戦の所を後回しにして撮らなかったんだよ」と土屋に語っている。撮影再開が決まり、黒澤家ではスタッフキャストを集めて乱痴気騒ぎの大宴会が開かれた。この試写の現場では、重役から「これの続きは」と詰め寄られ、黒澤は「ここから先はひとコマも撮っていません」と告白(これはハッタリではなく本当に撮っていなかった)、そのまま予算会議となり、追加予算を付けてもらったともいわれている。また撮影期間は3ヶ月の予定だったが、設定変更などで大幅に長引き、結局1年がかりで撮影されることとなった。

昭和28年秋になって、野武士の山塞を襲撃する場面が8台のミッチェル・キャメラを用意して撮影されたが、撮影所の大オープンセットでの撮影初日に、宣伝部が見学者を入れてしまった。これを極端に嫌う黒澤監督は激怒し、脚本を地面に叩きつけて帰ってしまい、その日は撮影は休みとなってしまった。
この野武士の山塞襲撃での、砦に火を点けるシーンは、実際に砦を燃やしての撮影だったため、消防署立ち会いの下、消防ポンプが待機していた。しかし黒澤監督が中止としたので、これも出番は翌日繰り越しとなった。ところが翌日は乾燥注意報が出て、あちこちで火事があり、消防ポンプが出払ってしまって、ポンプが来たのはかなり遅い時間になってしまった。その間にスタッフが「よく燃えるように」と小屋にガソリンをかけたことで、大変な事態となってしまった。利吉役の土屋が女房を追って砦の中に入るシーンで、バックドラフト現象が起きてしまったのである。突然の爆風と、想像以上に激しい火の勢いのため、土屋は意識を失ってしまい、以後のことは覚えていないと語っている。この爆発で、つながれていた馬はすべて自分で綱を切って逃げてしまい、野武士たちも残らず逃げてしまった。土屋は熱風により鬘も眉も焦げ、顔は火ぶくれを負って膨れ上がった。望遠キャメラだけが土屋を追っていたが、ラッシュフィルムには黒澤や消防士まで写っていて、この場面は使えなかった。大金をかけたセットは焼失し、スタッフルームで土屋がしょんぼりしていると、そばで黒澤もうつむいて涙を浮かべていた。土屋はその晩病院で一泊する羽目となっている。
後日、主映像となるカットを撮り直したものの「やはり当日のものが迫力があっていい」と、土屋の場面はそのまま使われた。完成後、黒澤は土屋に「俺も君も、あの山塞のことは一生忘れないだろうね・・・」とぽつりと語ったという。
利吉の女房役、島崎雪子は限界まで演技をしたため、撮影直後に火ぶくれで顔がみるみる腫上がった。また、その時に大事な小道具を砦の中に落とし、砦もろとも焼失する。
消火活動も困難だったらしく、砦のセットの周りの森も焼け果てていたクライマックスの雨中の合戦では、黒澤は雨をより激しく見せる為、雨の中に墨汁を混ぜて撮影を行った。

映画では9月ごろという設定であるが、撮影は2月の極寒の積雪の中で行われ、三船や加藤をはじめ肌着一枚やほぼ裸の役者にとってはとてもきついものであった。実は「雨の決戦」というシチュエーションも、積雪がある2月の撮影ゆえに誕生したものだった。
オープンセットに積もった雪を溶かすために消防ポンプ数台でぐちゃぐちゃにし、さらに大量の水をポンプで撒いたため、現場全体が泥濘と化し、これを逆に利用したのである。
当時のハリウッドにおけるアクション娯楽映画といえば西部劇がまだ幅を利かせている頃で、対決シーンというと炎天下の砂塵が吹く中での対決が主流となっており(そもそも降雨が少ない)、豪雨の中での合戦シーンというそれまでになかった手法に、ハリウッドだけでなく世界中の映画関係者、映画ファンを驚かせた。黒澤監督はこの雨のシーンについて、「アメリカの西部劇では常に晴れている、だからこそ雨にしようと思いついた」と語っている。監督はじめ全員が凍りつく雨の中で何日も頑張ったが、誰一人風邪をひかなかった。土屋嘉男は「今思えば、あの時のオープンセットは、泥と共に、一同のアドレナリンが飛び交っていたように思える。一日の撮影が終わるごとに、皆一様に、『戦い終わり日が暮れて・・・』を実感した」と振り返っている。皆撮影が終わると、撮影所で風呂に入り、家でまた風呂に入ったが、泥がなかなか落ちなかった。三船敏郎は「尻についた泥がどうしても落ちない」と毎朝顔を合わせる度に吠えていたという。

完成から15年ほどのちに、土屋ら一同が顔を合わせたが、全員が「あんな撮影はもう二度とできない。体力の限界!」との言葉が期せずして口から出たという。
(参照:ウィキペディア)

【ストリー】
麦の刈入れが終る頃、野伏せりがやって来る。去年襲われた村人は恐怖におののいた。闘っても勝目はないし、負ければ村中皆殺しだ。村を守るには侍を傭うことだ、長老儀作の決断によって茂助、利吉等は侍探しに出発した。智勇を備えた歴戦の古豪勘兵衛の協力で五郎兵衛、久蔵、平八、七郎次、勝四郎が選ばれた。菊千代は家族を野武士に皆殺しにされた百姓の孤児で野性そのままの男である。村人は特に不安を感じていたが、菊千代の行動によってだんだん理解が生れていった。
村の防衛体勢は整えられ戦闘訓練が始った。刈入れが終ると野武士の襲撃が始り、物見の三人を久蔵、菊千代が倒した。利吉の案内で久蔵、菊千代、平八が夜討を決行し火をかけた。山塞には野武士に奪われた利吉の恋女房が居た。彼女は利吉の顔を見ると泣声をあげて燃える火の中に身を投じた。この夜敵十人を斬ったが、平八は種カ島に倒れた。夜が明けると野武士は村を襲って来た。
侍を中心に百姓も鍬や丸太を持って村を死守した。美しい村の娘志乃は男装をさせられていたが、勝四郎にその秘密を知られ二人の間には恋が芽生えた。決戦の前夜、志乃は勝四郎を納屋に誘い二人の体はもつれ合って藁の中へ倒れた。翌朝、十三騎に減った野武士の一団が雨の中を村になだれこんだ。斬り込んだ侍達と百姓達は死物狂いで闘い、久蔵、五郎兵衛が倒れた。怒りに燃えた菊千代は最後の一人を屋根に追いつめたが、敵の弾をうけ、差しちがえて討死した。野武士は全滅した。
しかし百姓も数人倒れ、七人の侍の中四人が死んだ。新しい土鰻頭の前に立った勘兵衛、七郎次、勝四郎は、六月の爽やかな風の中で働いている百姓達を静かに眺めた。志乃も何かを振り捨てるように大声で田植唄をうたっていた。「勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない。」田の面をみながら勘兵衛がつぶやいた。

七人の侍七人の侍
津島恵子

題名:七人の侍
監督:黒澤明
製作:本木荘二郎、根津博、島田武治
脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄
撮影:中井朝一
録音:矢野口文雄、上原正直
音効:三縄一郎
照明:森弘充、金子光男
美術:松山崇、村木与四郎、前田青邨、江崎孝坪
小道具:浜村幸一
衣裳:山口美江子(京都衣裳)
結髪:中条みどり、山田順次郎
剣術:杉野嘉男、金子家教、遠藤茂
記録:野上照代
編集:岩下廣一
音楽:早坂文雄
現像:東宝現像所(キヌタ・ラボラトリー)
助監督:堀川弘通
監督助手:清水勝弥、広沢栄、田実泰良、金子敏
スチール:副田正男
出演:三船敏郎、志村喬、津島恵子、藤原釜足、加東大介、稲葉義男、宮口精二、多々良純、東野栄治郎、土屋嘉男
1954年ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞。
1954年日本・東宝/スタンダードサイズ・モノクロ207分35mmフィルム
七人の侍 [DVD]
本作はゲオ宅配レンタルでご覧になれます。

七人の侍七人の侍